※こちらの記事は以前のブログより移転した記事になります
人それぞれの3.11
2011年3月11日
「あの日何してた?」
東日本大震災後に出会った方々と、そういう会話になることが少なくありません。
フットサルを愛する方々の中には「代々木第一体育館でフットサルを観てた」と答える方も少なくないと思います。
【フットサル 小野大輔の軌跡】の中でも書きましたが、私もあの日は代々木第一体育館に行きました。
地震の瞬間は事務所近くの恵比寿路上で迎えましたが。

当ブログ(※移転前ブログ)を始めて1年2ヶ月が経ちました。
故に、昨年3月11日を一度迎えていますが、そのことには一切触れませんでした。
今年も触れるつもりはありませんでした。
それは当ブログが(移転前ブログ)フットサルのブログだからという理由ではありません。
触れられないと思っていたからです。
そんな中、昨日ある方からお電話を頂きました。
その方に「被災地に行った時にお前が書いた記事、久々読んだよ。久しぶりに被災地行かないか?」と言われました。
震災後、すぐに被災地に行きました。
当時、「むやみやたらに行くことは迷惑になる」と言われている状況でしたが、東京で何もせずにいる自分達に腹が立って、仲間の一人がある団体と繋がりがあったこともあり、その団体に頼んで仲間達と被災地にお手伝いをしに行きました。
その時見た光景は今でも鮮明に覚えています。
だからこそ、気軽に被災地のこと・震災のことをどうこう言えないと思ってきました。
私は周りからよく「スーパーポジティブ馬鹿」と言われます。
そんな自分が圧倒的無力感を感じたのは、この先あの時以上には訪れないのではないかと思っているほどの衝撃でした。
まずはその時書いた記事を、全文ではありませんが一部コピペします
2011年に書いた記事
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最後に「東京に戻って現実を伝えてほしい」そう言われた。
でも、正直何を書いて良いか分からない。
まだ現実を受け止めきれていないのかもしれない。
この記事を書くことで、自分自身まずは向き合うことからなのかと思っている。
その結果、皆様にも何か伝われば、冒頭の約束を守れたことになるかと。
現地の方などから交通規制などもあると聞いていたが、東京を夜中に出発したこともあり、順調に目的地に向かっていた。
道中は仲間内で久しぶりの長時間の車中ということもあり、大変不謹慎な話だが、正直全く関係ない話などもして盛り上がった。
そんな車中が一変したのは高速を降りてからだった。
私が運転していたのだが、その光景を初めて目にした瞬間に言葉を失った。
「道ねーじゃん」
仲間の一人が二度つぶやいたが、ナビでは陸地なのに目の前には海が広がっていた場所もあった。

そんな状況だったため、高速を降りてからはナビはほぼ意味を成さなかったが、なんとか集合場所に着いた。
集合場所に貼られていた依頼書の数は、何枚も繋ぎ合わせられた掲示板にびっしり貼られていた。
その中から私達に依頼されたのは、通帳や貴重品も出せずに避難され、仮設住宅がいつ完成するのかも、いつ入れるかも分からない現状ということもあり、被災者の方の家の片付けだった。
まず家の中には靴で上がって良いと言われ一瞬戸惑った。
しかし、家の中を見ると泥まみれでその理由に納得した。
そして、家具なども泥まみれで基本全て廃棄だった。
そんな各家庭の廃棄物で路上はあちこちでこんな状態だった。

そんな中、その家の奥さんに「捨てる前に引き出しを開けて欲しい」と言われた。
最初なぜご自身で開けないんだろう?と疑問に思ったが、木製棚の引き出しのほとんどが水分を含んだため膨張し全く開かなかった。
そのためバールでこじ開けた。
そこから写真が出てきたり、食器が出てきたり、びしょ濡れの服、通帳やパスポートも出てきた。
ただ、そんな木製棚の中で一台だけ 「バールで壊さないで」と言われた棚があった。
正直私はそれも廃棄だと思っていたのだが 「全部捨てると何も無くなっちゃうから」との言葉に、ただただバールを置いた。
バール無しに開けるのは困難だった。
でもそれを言ったら、この方の家には家具が一つも無くなってしまう。
足も使わせて頂きながらようやく開けた瞬間は、奥さんと一緒に感動を共有したが、中の状態を見た次の瞬間には失望がやってきた。
そんなことの繰り返しだった。
また、「これはどうしますか?」と、ほとんど再度使用することは困難そうな中身を見せながら、この確認を何度も家の方にするのがとても申し訳なかったし苦痛だった。
そんなことをしながら、突然雨が降ってきた。
こんな状況の、屋根が無い家がある街にも雨は降る。
その雨を降らす空を見上げながら、復興とは何なんだろう?と考えていた。
目の前には、元に戻すことが出来ないことがありすぎた。
東京である方が「モノは無くなってもまた買える。大事なのは人命」と言っていたが、もちろん一番大切なのは命だとは思うが、思い出は写真だけではない。
被災者の方々は「命があっただけマシ」と言って、爽やかに「捨てて下さい」と言っていたが、その言葉を言えるようになるまで色んな葛藤があっただろうし、被災者でもない人に「モノは何とでもなる」なんて言われたくないだろうなーとも思い、その方の言葉が凄く薄っぺらく感じた。
そして被災者の方々の強さに頭が下がる思いだった。
また、あるテレビ局の密着にあった。
最初はただ私達の作業風景を勝手に撮っていたのだが「ちょっと作業を止めてインタビューさせて下さい」と言ってきた。
私達の滞在出来る時間は決まっていたし、作業をしていた。
最初その旨も説明しお断りしたのだが、作業中も終止話しかけてきた。
また、引き出しを開けた瞬間などを「もう一回お願いします」と言ってきたり、あまりにも身勝手に感じ無視し続けた。
私達へのインタビューを諦めた後は、家の方々にインタビューを始めた。
あの日のこと、亡くなった身内のことなど、きっと答えたくないだろうなーという質問を矢継ぎ早にしていた。
見兼ねて注意すると、「多くの人に知ってもらうため」と言われた。
この家の方々の身内が亡くなったことを知ってもらって何になるだろう?と思ったが…
その後、被災地の光景をバックに、ピースしながら写真を撮って帰る観光客もいると聞いた。
それを聞いてから、写真を撮ることができなくなった。
なので上で掲載した写真以外、手元に写真はない。
ただ、この日私達が片付けを手伝えたのはたった2軒という事実は残っている。
汗まみれ・泥まみれになって、20代の男7人が朝から晩まで作業して、目の前に広がる多くの家屋の中のたった2軒。
それを目の前にし、屋根も窓もエアコンもある東京の家に帰る自分達。
あまりの現実に、帰路は行きとは全く違った空気感だった。
ただ、皆一睡もしていなかったが、東京まで誰一人寝むることもなかった。
~次回に続く~
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あれから3年
その後、仲間の一人は今でも月に一回被災地に行っていますが、私は全て東京でできることしかしてきませでした。
その理由は、「東京での仕事が…」「生活の拠点が東京だから…」なんて理由ではありません。
できればそういう理由と言いたいところですが、単純に私は被災地にまた行くことを避けていたと思います。
そんな中、本来自分自身の意思で動くべきだったとは思いますが、上述した方が再度きっかけを作ってくれ、近々久しぶりに被災地に行くことになりました。
今回何か具体的なお手伝いをするという話ではありません。
「あれからを見てみろ」「あれからを聞いてみろ」と言われています。
あれから自分自身は見ることを避けきた現実を、3月11日以外も嫌でも見続け、向き合い続けている被災者の方々。
どんな顔をして再会すれば良いのか今は分かりませんが、多分その言葉の真意は「避けてないで、もう一度向き合え」という意味だと思います。
震災から3年。
あの時感じた被災地の方々の強さに今度は負けないよう、目を背けないよう、もう一度向き合ってこようと思います。
こういったエントリーを書くことで、自分自身がそこに向けてまずは一歩踏み出したいと思い、書かせて頂きました。
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